2011年4月23日土曜日

最高裁が決断

最高裁が沖縄戦での住民の集団自決に、日本軍の関与があったことを認める決定をしました。写真は、元日本軍現地司令官などの異議申し立てを棄却した最高裁の決定を一面トップで伝えた、今朝の沖縄タイムスと琉球新報です。この事件裁判は大江健三郎氏の著書とその出版社の岩波書店が元日本軍現地司令官らから、名誉毀損で訴えられていたものでした。沖縄では島ぐるまで話題になり、新たな証言者も多数現れて沸騰した問題です。沖縄本島の西25キロ沖合のトカラ列島に沖縄戦の最初に米軍は上陸しました。この列島の渡嘉敷島、座間味島などで、住民は1カ所に集まり、次々に手榴弾や釜や石などを使い家族を殺し自分も死んだのです。この事件は集団自決と呼ばれていますが、沖縄では強制集団死と呼ばれています。その現地司令官が仕向けた集団死、からです。またあとで詳しく説明しましょうね。

2011年4月21日木曜日

東京から2人のお客様

昨日20日東京から2人のお客様。ひとりは新小岩の牧野ノリコサン、ひとりは八王子から浅井さん。2人を南部の戦争遺跡に案内、最初豊見城市の海軍壕記念館。沖縄守備の海軍が全滅した場所です。大田司令官の最後の日本政府あての電文に、この戦争に特別に協力した沖縄県民に将来特別の配慮をお願いしますとありました。しかし現実の戦後の政府はなにをしたのでしょうか?長い米軍占領を許し、復帰後も米軍支配は続き、いまだに本土から差別的扱いを受け続けています。海軍壕のあとは、沖縄戦争の後最も早く作られた遺骨の記念碑、コンパクの塔です。南部の海岸から100メートルほどの場所にあり、遺骨が35000体も納められたようです。5キロ四方の場所から集められたようですから、どんなに犠牲者が多かった分かります。兵士だけでなくひめゆり部隊のような看護役の軍属、それに一般住民もたくさん入ってました。それが碑の説明文では無名戦士の碑だとされています。誰がどうして書いたのでしょうか?まえから疑問に思ってましたが、これをきかいに訂正を申したてようと思います。そこからほど近いひめゆり祈念館に。沖縄戦争記念館で一番展示と説
明文がしっかりしています。ここは戦後いち早く土地をアメリカ人で沖縄二世のかたが買い上げて寄付してくれました。そこに記念館ができました、それに政府の援助なしに運営されてますから。時の政府の介入をうけないできています。県立の祈念館は知事が代わると展示内容がかきかえられたりしがちです。そんなわけでやはりひめゆり祈念館はピカイチです。あとマブニの平和の礎いしじにいき、韓国人の記念碑にもオマエリしました。沖縄戦争で韓国人は一万人以上が亡くなったと言われてます。昨年は日本が韓国を占領して百年でした。韓国人の碑をお参りすると、沖縄戦の被害届加害の両面が分かります。お昼は以前紹介した百美ヒャクビでした。浅井さんの飛行機に合わせて、帰路糸満のお魚センターに寄って、ご近所との夕食にとお刺身カマボコモズク天ぷらなどを買いました。浅井さん牧野さんの入って写真、ひめゆり前とマブニを添付します。

東京から2人のお客様

昨日20日東京から2人のお客様。ひとりは新小岩の牧野ノリコサン、ひとりは八王子から浅井さん。2人を南部の戦争遺跡に案内、最初豊見城市の海軍壕記念館。沖縄守備の海軍が全滅した場所です。大田司令官の最後の日本政府あての電文に、この戦争に特別に協力した沖縄県民に将来特別の配慮をお願いしますとありました。しかし現実の戦後の政府はなにをしたのでしょうか?長い米軍占領を許し、復帰後も米軍支配は続き、いまだに本土から差別的扱いを受け続けています。海軍壕のあとは、沖縄戦争の後最も早く作られた遺骨の記念碑、コンパクの塔です。南部の海岸から100メートルほどの場所にあり、遺骨が35000体も納められたようです。5キロ四方の場所から集められたようですから、どんなに犠牲者が多かった分かります。兵士だけでなくひめゆり部隊のような看護役の軍属、それに一般住民もたくさん入ってました。それが碑の説明文では無名戦士の碑だとされています。誰がどうして書いたのでしょうか?まえから疑問に思ってましたが、これをきかいに訂正を申したてようと思います。そこからほど近いひめゆり祈念館に。沖縄戦争記念館で一番展示と説
明文がしっかりしています。ここは戦後いち早く土地をアメリカ人で沖縄二世のかたが買い上げて寄付してくれました。そこに記念館ができました、それに政府の援助なしに運営されてますから。時の政府の介入をうけないできています。県立の祈念館は知事が代わると展示内容がかきかえられたりしがちです。そんなわけでやはりひめゆり祈念館はピカイチです。あとマブニの平和の礎いしじにいき、韓国人の記念碑にもオマエリしました。沖縄戦争で韓国人は一万人以上が亡くなったと言われてます。昨年は日本が韓国を占領して百年でした。韓国人の碑をお参りすると、沖縄戦の被害届加害の両面が分かります。お昼は以前紹介した百美ヒャクビでした。浅井さんの飛行機に合わせて、帰路糸満のお魚センターに寄って、ご近所との夕食にとお刺身カマボコモズク天ぷらなどを買いました。浅井さん牧野さんの入って写真、ひめゆり前とマブニを添付します。

2011年4月15日金曜日

写真家藤田観龍さんが突然に

昨日14日お昼前に正門にレンタカーらしきものを停めて、シーサーやらブーゲンビリアやらを撮影してきる男性を発見し、中に入るように手招きしましたら、やってきたのが写真家の藤田観龍さんでした。そうはいっても私は初対面。話をお聞きすると、北海道宗谷岬から沖縄までの、戦争平和のモニュメント像などを撮影網羅して出版したそうです。そこで、東京江戸川区の私も関係してできた原爆犠牲者の追悼施設と大空襲犠牲者追悼施設のことを尋ねますと、場所までキチンと記憶していて、その写真集を車に積んでるから持ってくると。その写真集が初めの写真で、次が私が関係した追悼施設の写真の部分です。いやはや2人で驚くやらご縁があるやらと、感激。ついでに2冊注文。一つは江戸川区に届けてもらうことにしました。藤田観龍さんの連絡先は044ー366ー2635川崎市です。沖縄の戦争遺跡もたくさん掲載されています。藤田さんは帰り際に小声で言いました。なんと言っても、戦争が被害が一番大きいですよ、東京大空襲では一晩で10万人ですからね。と。大震災との比較をする意味ではありえませんでしょう。しかし、確かに戦争被害は日本でアジアで
、桁がちがいます。沖縄戦では20万人を越えていますから。確かに戦争はなくさないといけませんね。

2011年4月10日日曜日

沖縄県で花祭りが行われました

毎年恒例の沖縄県仏教会のお釈迦様誕生お祝い、花祭りが那覇の西町の真教寺で行われました。糸満市の長谷寺からは私を含めて5人が参加しました。最初に東日本大震災犠牲者にご供養してからはじまり、紹介しているように、稚児行列もおこわれました。写真はそのままのようすです。

2011年4月9日土曜日

被災地原発に思いを馳せます

未曽有の地震津波それに原発事故からひと月になります。いまだに救援物資が不足している地域や復興が話題になりはじめた地域まで、さまざまですが、特に原発から30キロまでの地域では、津波の被害者の捜索すらできないままで、近い将来も汚染地域として住民は戻れないのではないかと、不安が広がっています。なぜあんな危険な原発を受け入れてしまったのか?後悔してもはじまりません。それにメディアに登場する原発専門家が、本当の危険性を言わないでいるのも気になります。戦時中の大本営と同じように、心配はないと繰り返すばかりですが、マスコミがいつの間にか、ここまで、国のコントロール下にあったのでしょうか?また支援金に日赤や共同募金会に送った方々は、ひと月たってもまだ被災者にわたていないことに驚きを感じています。一日も早く渡るようにと送金したのにです。やはり早い段階では物資を直接送るのが一番だとわかりました。それにしても早く手渡しして欲しいですの。

2011年4月2日土曜日

テレビニュースを見ては涙を流してます

大震災のテレビニュースを見ては、目頭が熱くなり、涙をふく毎日です。何と悲惨な惨劇でしょうか。あの阪神淡路震災ですら、6500人ほど死者を出したとして未だに悲しみにつつまれているのにです。今回は死者と行方不明者で2万8000人にもなり、それも毎日増えています。それに福島の原発の大事故です。あの半径20キロないし30キロの範囲の地域では、放射能の危険性から死者行方不明者の捜索そのものができないで放置されているというのです。こんなことがあるでしょうか。テレビに映し出される親族を探す方々の映像や、再会を果たした方の映像、はたまた被災地から遠い地域や海外での熱心な支援の映像などを目にすると、目頭が熱くなってしまいます。
 上の写真は、境内に咲く、沖縄のみかんシークワーサーの花と、既に小さな実をつけている様子を写したものです。下の写真はテレビ画面からです。沖縄は内地向けの菊の栽培が盛んです。ところが今回の震災で、菊が大量に売れないで、ブルトーザーなどで処分しているという報道です。糸満市の菊栽培農家の新垣さんのテレビ画面で、菊をつぶすのは辛いけど、大震災に被災された方に比べれば、我々は我慢しなければならないと話していました。
 納得できないのは、牛乳とほうれん草などの農産物の出荷停止などです。私の親戚が福島県会津で牛乳メーカーを経営しています。原発のある福島県浜通りと、そこから80キロも離れた会津地方では原発の影響はずいぶん違います。元乳の放射能測定では会津地方の元乳からは放射能は出ませんでした。それなのに国と県は、福島の総ての地域の元乳の出荷停止と決めてしまいました。そのために会津では牛乳は作れなくなってしまいました。ひどい話です。なぜ全域で出荷停止にしてしまうのか。会津を別にできたはずです。野菜もそうです。直ちに人体には影響はありません、という説明を何度も聞かされていますが、直ちにはないけど、そのまま何度もあびていれば結局は影響をうけますよと政府は言っているのと同じです。何とも納得できませんね。それに被害を第一次的には東電がおうというのです。しかし東電も倒産寸前ですから、たぶん責任を負えないでしょう。政府も大赤字ですから、その段になっても責任は負えないでしょう。ですから、将来損害を賠償する時になってもねどちらも責任負担能力がなくて、被害者は泣き寝入りになると予測できます。かっても戦争に負けたときのように、一億総懺悔などと言って、みんな悪かったとされてしまいかねません。それに政治家は辞めれば責任はついてきませんし、政党も実際に過去の政策について責任をとった政党はありますか。損害賠償の責任は政治家も政党も一切負いません。こうして、東電は倒産、政府も破産、政治家政党は元々無責任ですから、被害者は泣き寝入りとなると予測されます。責任を追及するなら、将来ではなく、いますぐに仮払いの損害賠償をしてもらうことです。これなら可能性があります。私は仮払いを強くおすすめします。さて今回はこの辺で。ともかく被災者の皆さんの健康と一日も早い復旧とをお祈りしています。合掌

2011年4月1日金曜日

原発人災について

福島原発の危機が日毎に深まっています。確かに改善にむけた努力がなされています。しかし日毎に放射能は強まっていますし、範囲も種類別にも危険になりつつあります。ヨウ素は幼児に危険ですが、半減期30日のセシウムは大人にも内部被曝で危険です。半減期30日というのは、危険性が半分になるのにひと月かかるということで、10分の1になるのに300日かかります。さらに半減期二萬4000年のプルトニウムは10分の1になるのに、24万年かかります。プルトニウムは自然界には存在しないもので、原発でウランを燃やしてできたものです。体内被曝とはこれから放射能発生源を体内にとりこんだために、人体細胞などが発生源から受ける放射能の被害のことです。体外は洗えても、体内は洗えないので、半減どころか長年被曝をうけつづけます。心配です。